Twitterの方で度々ネタにしていた”『ハーモニー』の読書感想文”が見つかったのでデジタル化(文字起こし)しました。
2012年、高1の夏休みの宿題として書いたものです。これが校内でちょっと表彰され、わたしは現在まで調子に乗ることとなります。その意味で、原点ともいえる文章です。
期限ギリギリに徹夜して書いたからか、あるいは今以上にかなり頭が悪かったのか、表現が重複してたり一文が長すぎてわかりにくくなっていたりしてアレですが、これもある種の禊として、ここに全文を放流します。
調和と「自分」
今年の一学期に、国語の授業の中で森岡正博氏の『無痛化する社会のゆくえ』という評論文を読みました。それは現代の、テクノロジーを発展させて目の前の苦しみやつらさから逃げ、またその苦しみやつらさが起きないようにあらかじめ手を打っていこうとする社会の流れの果てにあるのは「快楽や刺激がいくらあってもよろこびがなくこころが満たされない世界」であるとするものであったのですが、それを読んだ中でなんとなく思い出したのが伊藤計劃氏の『ハーモニー』で、買ってはあったのですがまだ読んでいなかったので夏休みを使って読んでみることにしました。
この本の舞台は、テクノロジーの発展が社会の構成員の身体的状態を常に監視、指導することを可能にし、それによって病気という「苦しみやつらさ」を原因から駆逐された代わりに人間は互いに慈しみ、支えあうことが絶対とされる医療産業社会。登場する少女たちが抱いているのは「真綿で首を締めるような、優しさに息詰まる世界」に自分の体を言葉に、また社会の「リソース」にされることへの憎悪。そして主人公は一人の少女に扇動され、監視に逆らい餓死しようと試みます。そしてその十三年後、その時死ぬことのなかった主人公は、世界を襲う混乱の裏にあの時自分を導き、一人死んだはずの少女の影を見出し、追いかけていくのです。
この本を読み始めた時、私はこの世界に対して大きな憧れを抱きました。今現在病気は駆逐されていないわけで、それが駆逐されれば、自分が生きたくても生きられないという状況に置かれてしまう可能性は減って、きっと寿命も延びる。それで喜ばない者はないでしょう。少なくとも私はそうであるので、実現したならどんなに良いものだろう、ぜひ実現してほしいものだと思ったのです。しかしこの少女たちはそうは思っていない。むしろ自分に堕落させてほしいと考えている。自分で自分を滅茶苦茶にしたいのです。
こうして私の抱いた感想と登場人物、つまり当事者である彼女たちのそれとは正反対になったわけですが、ここにはある種の矛盾があるようです。
つらさや苦しみのない、要するに生かされているだけで良い安楽な世界は、今がそうでないからでしょう、ついつい求めたくなるものです。そして今言ったように、ぜひ実現してほしいとも思っています。その一方で、人間は「自分」という意識で自分を生かすことによって生きていて、他のものに生かされているうちは生きていないとしたとき、社会によって生かされながら「自分」を生かすことはもちろんできません。しかし人間には自分が自分であるという意識が生きていく以上必要なわけで、そのせめぎ合いの中で無理矢理自分を出そうとした時、自分で自分を感じるための手段として一番手っ取り早いのが自傷行為なのでしょう。そして、この本の世界を『無痛化〜』で示されたものに近い表現にしてみれば、「つらさを感じることなく生きられるという最大の快楽があるが、よろこびや満足感はそこにあるものではなく一から見出し受け入れるものとなっている社会」といえるのでしょう。すると、ここでもやはりテクノロジーの発展と人間の生きるよろこび、満足感は同居できなかったことになります。
この本の中で、そのことに対処するためとしてとられたのは、人間の意識自体を消してしまうことです。そうすることで、人間は「動物であることを完全にやめ」、「太古からそれに向かい目指し続けてきた社会的存在に。ようやく到達した」のだといいます。人間が単なる社会システムの一部であることに苦痛を感じなくなったこと、それは同時に、テクノロジーの発展に人間のこころがついに敗北してしまったことを意味しています。そしてそのままこの話は幕を閉じるのです。
人間のこころ、つまり「自分」を取るか、それとも社会の調和を取るか。結局話の中では調和が取られてしまいましたが、やはり私は最後まで「自分」を取りたい。本当はあの話だってきっと、調和を得た後の何か先の者が本当はあるはずなのです。人間の、個人の意識がないままで終わってほしくないと願うのは、自己中心的な考え方なのでしょうか。今こうして個人の意識を持ち、感じている私という人間としては、そう思わないことには正直耐えられないのです。
今こうしている間にもテクノロジーは少しずつ発展していて、私達の生活がまたひとつ快適になっていきます。そして苦痛のない幸福な生活もまた、これから先ずっと同じように願われ続けるのでしょう。それでも私は、たとえどんな苦痛がそこにあろうと「自分」は手放さないべきだ。それが、この夏私が学んだことです。